すべての始まり ― ル・ロックル
創業の原点。19世紀半ば、クロノメトリー(精密計時)をめぐる技術競争が幕を開け、世界を大きく変えることとなりました。長きにわたり揺るぎない地位を誇っていた英国時計師たちの支配は、終わりを迎えつつありました。その転換点は、世界的な大国からではなく、農業を基盤とする内陸の小さな国、そして若きユリス・ナルダンが故郷と呼んだ、ル・ロックルという小さな町から生まれたのです。


スイス時計製造の台頭
当時、スイスの時計製造は、まだ英国の最高峰と肩を並べる存在ではありませんでした。生産はエタブリサージュと呼ばれる方式に基づき、数百人の職人が製作した部品を組み上げ、質素で手の届きやすい時計を完成させていました。しかし、高い精度を備えた時計を大量かつ手頃な価格で生産できるアメリカの新興工場が台頭し、世界の時計市場には次第に緊張が走ります。この流れは、英国の衰退とスイスの台頭を決定づけることとなりました。

技術の加速と発展
それより数十年前、グリニッジ王立天文台は、航海の安全に不可欠な高精度の時計を生み出すことを目的に、クロノメトリー競技会を創設しました。経度計算を可能にするマリンクロノメーターは高価かつ希少であり、これらの競技はその技術的進歩を加速させるためのものでした。やがて競技は西ヨーロッパ各地の天文台へと広がり、ユリス・ナルダンの地元であるヌーシャテル天文台もその一つとなりました。

限界を押し広げるユリス・ナルダンのビジョン
これは、最先端技術が求められる新たな時計製造の世界において、ユリスが自らの名を刻むための絶好の機会でした。ミニッツリピーターを専門とする時計師であった父は、持てる知識のすべてを息子に授けました。さらにユリスは、精度の分野における地元の専門家であるウィリアム・デュボワとルイ・リシャールのもとを訪れ、自身が目指す精度の水準には、従来とはまったく異なる時計製造のアプローチが必要であることを学びます。
1846年、わずか23歳のユリス・ナルダンは、父から借りた500フランを元手に、実家の屋根裏部屋で自身の名を冠したメゾンを創業しました。目標は究極の精度。技術的限界の最前線とも言える、未踏の領域への挑戦でした。この挑戦はやがて家族の事業となり、妹はルビー軸受のセッティングを担当し、兄は時計の輸出を支援しました。


ユリスは、8日間のパワーリザーブ、フードロワイヤン・セコンド、ムーンフェイズ付きフルカレンダーなどを備えた、高精度かつ複雑な懐中時計の製作に成功します。しかし、彼が追い求めた高度な精度は、当初の想定を超える困難を伴うものでした。当時、クロノメトリーの測定は地元の天文台で行われていましたが、その工程はユリスにとってあまりにも時間がかかるものでした。真の精度を掌握するためには、その能力を自らの工房内に取り込む必要があったのです。




時計精度の新たな水準
1860年、ユリスは自身の命運を左右しかねない大胆な決断を下します。天文台レベルの精度を誇る高精度レギュレータークロック、いわゆる天文用レギュレーターへの投資です。この非常に高価で最先端の計測機器により、彼は自らの時計の精度を極めて正確に調整・測定できるようになりました。それは工房の鼓動とも言える存在となり、究極のクロノメーター開発において、事業に大きな機動力をもたらしました。その価値は絶大で、工房が火災に見舞われた際、ユリスが最初に救い出したのもこのレギュレーターでした。

クロノメトリーにおける受賞と技術的評価
天文用レギュレーター導入からわずか2年後、1862年のロンドン万国博覧会において、ユリス・ナルダンはクロノメトリー部門で初の金メダルを獲得し、栄光を手にします。しかし、彼の目的は賞そのものではなく、世界で最も精密な計時機器であるマリンクロノメーター分野における覇権でした。この時点で、それが世代を超えて受け継がれる使命であることは明らかでした。

精度と革新におけるユリス・ナルダンの遺産
晩年のユリス・ナルダンは、精度への情熱を息子ポール=ダヴィッドに伝えることに専念しました。その遺志は息子の歩みの中で生き続け、父の死後まもなく、ポール=ダヴィッドは初の金メダルを獲得します。彼は時計および計時機器の製造に、これまでにない科学と工学の水準を導入し、ついにユリスの夢――世界で最も正確なマリンクロノメーター――を実現しました。こうして、23歳の若者がル・ロックルの静かな屋根裏工房で始めた挑戦は、1世紀にわたる世界的支配へと結実し、その地にメゾンは今なお息づいています。